数年前のこと、日本のキャリアカウンセリングの担う!ことを自認しているキャリア開発協会で仕事を請け負った時、名刺での旧姓使用を求めたら、「それはできひん」
と言われた。以前、農水省では、名刺でも論文でも旧姓使用を普通に認められていたので、「はぁ!?」と思った。
そのとき身の内に感じた怒りの熱も、今ではすっかり冷え切り、旧姓と結婚後の姓を器用に使い分けている。
(たまに、お店の予約なのでどっちの名前を名乗ったか忘れたりはするけど)
両方使っていると、旧姓が自分にとっての自立の証でちょっと誇らしいような気持がする。一方、結婚後の姓を使うときには、「伝統的価値観」持つ人々に非難されずにすむ安堵感を感じている。
あら、気づけば、私と言う人間は、いつのまにか二つに引き裂かれているではないか。
異なる立場をひとつの身に引き受けるということは、埋まることのない亀裂を抱え込むということだ。割れたグラスのように、その中身は常に外へ漏れ出ていくのだ。満たされないままに。
ということを、ふと思い出した昨今。