のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

時の流れというものについて

 「時の過ぎ行くままに」というタイトルの小説はありそうだけれど、「時の流れ」という小説はなさそう。いや、あるのかな?
 まぁ、タイトルなんて何でもアリなわけだから、あっても不思議じゃないけど、なんとなく、小説のタイトルとしてはあまり良いものではないような気がした。

 もうすぐ11月が終わる。このころになると、同じささやきがあちこちで聞かれる。
「一年が早いわ―」
 私も、ここ数年、口にしてきた言葉だ。しかし先日、バイオリンの先生の家に向かう道すがら、坂道を上った先に広がる初冬の早い夕暮れを見て、思ったのだ。この感覚は、時間が過ぎるのが早いとはちょっと違う。
 それはまるで、いまこの私が存在する時間に、色んなものが凝縮して在る、という感じなのだ。そして、本来、今の感じ方の方が真実に近いのではないか、という直観めいたものも浮かんできた。

 朝起きて、顔を洗い、犬の散歩に行って帰り、ご飯をあげる、といった行動は、順番に流れ作業のように行われていくけれど、本来、その一つ一つの行動はもともと自分の中にあったものを外に出して表現しているだけ。
 あるいは、月曜と火曜日に大学に行き、水曜日には模擬面接の仕事に行く。そして木曜の夜には社会人のカウンセリングをして、金曜はまた別の大学でカウンセリング。これも、時間の流れに乗ってきて去っていくのではなく、私の行いとして私の中に、あるいは、私と周囲の環境との営みとして、両者の重なりの中に形を成した現象なのだと思えば、それは私の存在によって囲われた時空間の中にあらかじめ含まれているということだ。

 駅の改札を出て右に曲がると、お寺の横を通る細道に出る。道の両側には、ドウダンツツジの植え込みと等間隔に立つ百日紅の樹が、薄闇のなかで黒いシルエットとなって緩いカーブを描いている。夏には、眩しい日差しの中、濃いピンク色の花が華やかにこの道を彩っていた百日紅
 私はその花を、20代後半にも見ていた。サウスキャロライナの小さな小さなダウンタウンのメインストリートを守るように、両側に立ち並ぶその木々の間を、私は何度行き来したかわからない。いまでも、百日紅を観るたびに思い出すのは、あの自分が何をしているのかいつも不明確で、おどおどと過ごした日々がよみがえる。いまも、自分がやることに確信が持てず、横やりが入る不安におびえながら、でも一方でやけに楽観的な「ワタシ」は、ここにいる。
 坂道を登り切った向こうにわずかに空を染める黄昏のオレンジを見ていると、未来の時間はまだやってきてはいないようにも思えるけれど、ふと自分の横に目をやれば、すっかり暗くなった薄闇の中にあの時もこの時も同じように充満しているように思えるのだ。すべてが今に蓄積し、いつのときも同じようにここにある。まるで、私が、たくさんの落ち葉がふかふかに重なったなかに埋もれていて、下から一枚一枚眺めていっているのを、時の流れだと思っているような感じ。
 若い時は、ひとつひとつ眺めるのに時間がかかり、(もしかしたら、物珍しさにじっくり見つめていた?)、今はよりハイスピードで一気に眺められるようになっただけなのかもしれない。

 そんな不思議な感覚に包まれた、冬の始まりの夕暮れ。