のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

3年ぐらい前にも同じこと言ってたと思う

 昨日の夜、というか今日の早朝、未明?、眠りながらうじうじと考えた。このところ、仕事が無い期間が続いているので、思う存分書き物ができるということで、毎日図書館にこもって、書き物に邁進しようとしているのに、ぜんぜん書けてない。

 なぜなら、思うことを理想の形で文章にできないから、最初の2文目ぐらいで行き詰まり、ずっとその文章を直して永遠に進まない。3分も足踏みをしていると、だんだん眠気がさして、うとうと。寝る。はっ!と目覚めて、また文字と格闘すると、うとうと。。はっ!の繰り返しで30分が過ぎ、ようやく起きて、2行ぐらい見直しをして、頑張って30分ぐらい食らいついてできた文章は、ほんの5行。

 時間かかり過ぎなんよ!しかもその文章、昨日書いたものとほとんど変わらんし!

 それで絶望して思うことは、こんなことやってて意味あんのか。いや無い、ということ。だってそれはまるで、激しい嵐が吹き荒れる大海原で、いままさに眼前に立ちはだかる巨大な波に飲み込まれようとする船の甲板に、洗濯物干しを設置してタオルを乾かそうとしている、ぐらいに意味がない。あるいは、気温40度を超えるカンカン照りの灼熱の大砂漠で、小さな葉っぱのついた2㎝ぐらいのアジサイの枝を大地に挿し木しようと水をやっている、ぐらいに無為なのではないか?と思うのだ。(比喩ばかりが念入り)

 それじゃなくたって、世の中には大人気ユーチューバーが、面白そうで楽しそうな旅動画とかをたくさんあげていて、それを見て楽しんでいる人が何十万人もいるんだから、もう、それでよくね?いまや、文章だけで構成された小説なんて歴史の遺物。誰も求めていない、とまでは言わないけれど、太宰治とか川上弘美とか大江健三郎とかヴァージニア・ウルフとかグィンとか、すんばらしい作品を生み出す人々にしか、その行いの価値は与えられないんじゃないの?だって、そうした輝かしい作品群がすでに世の中にあふれかえっているのだから。と、思ってしまふのだ。

 しかし、そうした自分の無為徒食を嘆くのは、単に自らの能力不足を拗ねているだけだなぁと、昨日の夜というか、今日の早朝というか未明に、思ったのだ。自分が、何か書こうと思ったとき、頭の中の無の真空を見つめて呆然とする、ただのできない自分に向き合うつらさを捻じ曲げているだけなのだ。

 バイオリンを習い始めた頃の自分を思い出せ。いちばんさいしょは、酷いギーコギーコ騒音を発していただけだった。先生の奏でる音色と天と地ほどにも違う、弦の軋みや掠れ、言ってみればボロ雑巾のシミ汚れみたいな雑音を発しているだけだったのだ。

けれど、今では多少は(いや、正確にはごくたまに)あ、これはもしかしてヴァイオリンなのかしら?と思わせるぽ音をちょっとは鳴らせるようになったではないか。

 文章だって同じ。諦めずにコツコツコツコツ、コツコツコツコツ、と続けていれば、少なくとも今よりはちょっとはマシな何かが生み出せるに違いない。

 たとえ、誰も読んでくれなくても(ほんと、家族すら読まんからね)。

 たとえ、生み出した本人がその”マシ”さ加減に気づけなくても。満たされぬ思いは、一生消えないと分かっていても。

 やらずに悶々とし続けるよりも、やって悶々とし続ける方が、きっといい。どうせろくでもないんだからね。

 だから、自分よ、毎日書くのだ。今書いている作品作りの文章じゃなくてもいい。というか、それが書けなくても、日記で今日起きたことを書くのだ。日々の修行を繰り返すことでしか、道は開けないのだ。と、思って、今ここに至っている。

 

 

 

 

 これは、