のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

大海のなかで嵐に揉まれてローリングされるカエル

 今日は、とあるカルチャースクールの小説講座に行ってきた。この講座に、初めて参加したのは7,8年ぐらい前で、何年間か続けた後は、行ったり休んだりを繰り返してきた。小説講座といっても、各自が勝手に書いた作品を提出し、みんなと先生から講評を受けるというスタイルなので、自分で書かない(書けない)者は当然ながら講評を受けることはない。私は、これまで一編たりとも書くことができず、ただただ受講料を無駄に献上し続けてきたという歴史(?)がある講座だ。

 しかし、しばらく前にとあるワークショップをきっかけに作品を書いた私は、今回はすでに書いたものがある!と、意気揚々と参加を決意した。ようやく、私も作品を提出できる時が来た!と。しかし、まだ作品を提出していない。

 理由は、周りの人たちの作品がとても深みがあり成熟しているように見えるのに比べ、自分の書いたものがあまりに幼稚で陳腐だから…。 

 さらに、何年か前にこのクラスに出ていた時には、比較的若い人も多くて打ち解けやすい雰囲気だった。男女比は、4:6とかぐらいだったろうか。いろいろな属性の人がいて興味深く、さっぱりとした人が多くて、馴染みやすかったと記憶している。
 しかし、3,4年ぐらいの時を経ると、当たり前ながらメンバーは様変わりしている。女性の割合が9割ぐらいとずいぶん増えた。しかも年齢層が高く、みんな意気軒昂で、大きな声でよくしゃべる。

 ふと思い出すのだけれど、スピリチュアルな界隈では、修行が進むほどに男女の特徴は逆転していくと、松村先生がのたまうていた。たとえばインドのOSHOのアシュラムでも、女性はどんどん元気に活発になり、男性はどんどん弱弱しくなるとのことであった。この講座に参加している女性も、ある意味、文筆の修行を重ねて元気になっている(か、もともと元気な人たち)のではないかと思われる。

 って、余談はともかく、私は周囲の人々にすっかり気圧されて帰ってきた。

 教室の主な活動は、作品の合評なのだが、周りの人はどんなことでも(深い意味がありそうなことでも単なる感想でも)、自分の意見を堂々と、たじろぐことなく、長々と話す。けれど私は、そもそも自分の考えや感じ方の言語化が苦手で、しかも自分がしゃべっているうちに、こんな意味が無さそうなことを延々と述べていいのだろうかと不安に襲われ、さらに、何か間違った浅はかなことを言っていやしないかビクついてしまうのだ。なので、舌鋒鋭い発言を目の当たりにすると、ひたすら劣等感を刺激され、こじらせたコンプレックスが相手への嫌悪感まで募らせる。
 提出作品が、人間の生のドロドロとした感情や、細かな生活の様相をリアルに描いているのに対して、私の発想の幼稚なことといったら、小学生か?!とセルフ突っ込みをしたくなるレベルだから、というのもあるかもしれない。

 そんなわけで、勝手な疎外感を抱えて意気消沈して帰ってきたのであった。

 でも、でもですよ、振り返って考えてみると(てか、考えてみるまでもないんだけど)、なんと容易に周囲に揺らがされていることであろうか!
 これではまるで、大海の中の蛙、ではないか!
         (☝海の大波に揉まれるカエル、を意味しています)。

 ということに気づけたのは、良かったことである。なんとなく気分が塞いで、あやうく本日のブログを書かずに寝てしまうところであった。大事なのは、日々の些事に左右されず、大きな目標を見据え続けること、であるのを忘れるところであった。

 小説を書きたい、という気持ちはあるものの、私は自分が何を書いたらいいか、未だに分からない。分からないんだけれども、何か自ら創作をした”作品”と呼べるものを形にしたいのだ。 
 絵も下手だし、音楽的センスもセミのおしっこぐらいしかないし、僅かなりとも自分なりに形にできると思うのは、言葉を使ったことぐらい。だから、文章で何かを作るしかない。もうこの年になったら、いちいち周囲の状況に振り回されている時間はない、はずなのである。

 周りに流されないこと、揺らがされないこと。そして、大きな目標を忘れないこと。

 そんで、タイトル書きながら気になっていたんだけど、カエルって、海水に入って大丈夫なのだろうか? 

 浸透圧で死んじゃうとしたら可哀そう。だから、もう大海にカエルを入れないようにしよう。